今週の言葉

 このコーナーは、私が何となく気になっている言葉ネタに何か書くコーナーです。

戦後賠償 (20000422)

 今期取っている講義で出た話から。
 よく「日本の戦後賠償は十分だったのか」などという話があって、私はそれについてはいくらか右傾的に政府の言うとおりに「十分である」という立場をとるのだけれど、その根元は何なのだろう、などと講義の間考えてみた。
 その結論。
 総体としての外国人への不信感。

「一度、頭下げたら何されるか分からない」というのが全ての始まり。

「信頼できる人もいる」という意見もあるかも知れないけど、それは個々の要素を取り出したときに全く当たり前のことであって、むしろそうじゃない方がおかしい。
 けれども、声を持っているのは多くの場合なぜか悪意を持った人たちであるような気がして、怖い。それが正直なところ。なんというか小市民発想。

 こういうのを悪い開き直りと言うんだろうと、自分でも分かったつもりなのがなお悪い。


制服の「中身」 (20000404)

 制服は、中心が空虚であるからこそ愛すべきものなのである。などということをロラン・バルトの「表徴の帝国」のページをめくりながら思った。
 私が制服に対して少なからぬ愛着を抱いていることは分かると思うけれど、そうであることに対してたまに「じゃあ、着ている人はどういう存在なの」ということを聞かれることがある。

 確かに、どうせ観察するならその制服が似合う人が着ていてくれていると嬉しいのだけれど、それはどういう意味を持つのだろうかということは、これまで明確化に意識できなかった。
 なのだけれど、「表徴の帝国」に収録された「中心-都市-空虚の中心」をまず斜め読みして、思ったのである。制服を着ている人、<中身>はどうでも良いのである。

 そうして空虚としたその中心に、我々は幻想を滑り込ませることが出来る。アニメやゲームのファンの中に制服ファンが多いのは、その点故ではないであろうか。
 制服は、(特に日本の)アニメやゲームのキャラクターにおいて、外見上のほぼ唯一のアイデンティティである髪の色や髪型、目の色と言った<中心的>な記号を変容させることなく、その外側に補完する形で存在することが出来るのだから。そしてそれは仮想のキャラに限らないだろう。
 制服は、中心が空虚であるからこそ、モニターあるいは紙面のこちら側と向こう側の境界に、かすかな穴を開けるゲートたり得るのであり、それ故に愛すべきものなのである。

 もちろん、ゲートは何も制服である必要はないのだけれど、あえてそれが制服であるのはおそらくその「コレクション性」などとも関連しているのだろう。

参考:ロラン・バルト(宗左近 訳)「表徴の帝国」ちくま学芸文庫


川崎劇場 (20000327)

 川崎球場がロッテがフランチャイズから離れる寸前くらいから、あまりに悪い客の入りをなんとかしようと打っていたCMのコピー、「テレビじゃ見れない川崎劇場」より。

 ただし、劇場だったのはどう考えてもグラウンドではなくてスタンドの方だったような気もする。そしてそのスタンドのお客さんの様子は毎回毎回プロ野球の珍プレー番組でレギュラーとも言える位置を占めていたのは有名な話。


桎梏(しっこく) (20000121)

 先日、大学の教室の机においてあった全学連のビラで、文脈から意味は取れたものの正確な意味と読みが分からなかった熟語。
 その後できのした師の研究室に遊びに行ったついでに師にお聞きしたところ、「しっこく。束縛とかそういう意味だよね」とおっしゃったあと「新左翼が好んで使う言葉だね」とも。

 角川の必携国語辞典によれば、

 しっ-こく【桎梏】(名)行動の自由をさまたげること。束縛。(「桎」は足かせ、「梏」は手かせのこと。)

 だそうで。


ポコペン (20000110)

 私にとってそれは、缶けりの缶無しバージョン。缶の代わりに壁を使い、鬼よりはやく、壁にさわる遊び。
 そのゲームで壁をさわる時に言わなければいけない言葉が「ポコペン」。
 実はこの「ポコペン」。差別用語らしい。
 一体何をどう差別しているのかはしらないんだけど。

 しかし、全然「今週の」ではない更新ペース(崩落)


文人 (19990723)

 文人とは、絵画(文人画)や俳諧に生きた、江戸時代の人たちのことである。与謝蕪村などに代表される彼等は、町人のコミュニティーにも、(もちろん)武士のコミュニティーにも属さずに、社会の周縁で独自の美的感覚に基づいてかなり内向きな活動を行ったと言われる。
 平安時代の貴族(あるいは女房)文化もやはり社会のメインストリームから隔絶されたところで独自の美的感覚に基づいて内向きに活動をしていたと言われるが、これはつまるところ今で言う「おたく」と全く変わらないような気がするのは気のせいだろうか。
 文人達も女房達も彼等(彼女等)は自分たちが属する小集団の中における文脈で語り、それこそを最高の価値としていた。これは「萌える」を基準に物事を語る現在の「おたく」と何ら変わらない。

 上野俊哉はその著書の中で岡田斗司雄が「引用による文化」という面に着目してアニメーション(ジャパニメーション)やコミックおたく文化を日本文化の正統的な後継者と位置づけていることを、安易なナショナリズムと批判している。だがおそらくは「おたく文化」自体はまさに日本的なものを引き継いでいるのだろうと思う。
 アニメやコミックが「日本的」なのではなく、上野の言う「反社会的なおたく」の集団が成立してしまうこそがまさに「日本的」なのではないだろうかと。


スキャニメイト (19990706)

 初期の電子的映像表現技術の一つ。
 ビデオで撮影された映像を、電子回路に通すことで(コンピュータで演算するわけではないところに注意)拡大、縮小、はたまた正弦波への変換などを行うというもの。
 日本で用いられた主な例としては竜の子プロが1970年代に制作した「宇宙の騎士テッカマン」のオープニング(1975)や「タイムボカン」シリーズ(1975-1983)のタイムワープのシーンなどが挙げられるが、動きが単調だったこともあり、定着することなく消えていった。
 アナログシンセのCGアニメーション版、といったところか。


萌え (19990629)

 パソコン通信から自然発生的に生まれた言葉、いわゆる波動用語の一つ。もえる、と読み女の子キャラ、あるいはその表情や仕草、声優さんの声などが心の琴線に触れる様を言う。
 かつては萌え具合が進行するに従って「萌ゑ」「萌え゛」「萌ゑ゛」というように現代日本語から乖離していくとされたが、最近では「萌壊」(ほうかい、萌えて萌えてどうしようもない様)等のような用い方もある。
 アニメやゲームなどについて語るということにおいて、この「萌える」という言葉は、本当に絶妙な表現だと思う。
 私にはブラウン管やディスプレイ、紙面の向こうという異世界への感情を、あたかも平安貴族が花と言えば桜、鳥と言えばほととぎす、というような定式化された自然を愛でるかのように表現しているとさえ思えるのだが。


イノベーション (19990623)

 最近聞かなくなった言葉の一つ。
 以前は主に広告などでよく見かけたと思うのだけれど、先日新聞広告で見かけ、ふと懐かしい気持ちになった(笑)
 因みに意味は「革新」とか「刷新」という意味。
 もちろん、言葉を使わなくなったからと言って革新をしなくなった、というわけではなくて今は同じ意味で「リストラ」とかもっと分かりやすく「構造改革」などの言葉が使われているのだと思うが、さて。


天使の取り分 (19990531)

 蒸発してしまったり、こぼしてしまった分のお酒のことを「すっぱいぶどう」のようにこう呼ぶ人もいる。
 なんにせよアルコールには付き物、らしいがいろいろと応用の利きそうなセリフである。


(笑) (19990511)

 どうやって読むのかも知らないし、いつから大量に用いられることになったのかも知らないけれど、気になる表現である。
 これを使うことでなんというか「パチモン」っぽい感じとか、自虐っぽい感じとか、「っぽい」感じとか、色々表せる言葉である。
 文章の中では、特に対談記事などでは良く目にしたけれど、これを初めて意図的に使った例の一つとして白倉由美のマンガ「卒業、最後のセーラー服」が挙げられるだろう。この作品の登場人物の一人のセリフで

 彼には若者たちの神(笑)になってもらいましょう

 というものがあるのだが、この「(笑)」から酷く凶悪な感じを受けた。
 そして、(笑)という言葉についてちょっとだけ、考え込んだ。
 一体「(笑)」とはなんなのだろう。


ダイソン・リング (19990502)

 プリンストン大学(当時)のフリーマン・ダイソンという天文学者が1959年に発表した妄想(としかいいようのない物)。
 太陽(恒星)の周りをすべて包み込むような巨大な球形の構造物(直径は1天文単位*ぐらい)を作ることによって太陽のエネルギーをすべて利用しつくすことと、広大な居住空間を得ることを目的としている。ORS(オービタル・リング・システム)という方法を用いれば現在の技術でも建造が可能らしいが、まともに建造しようと思えば100世紀かそこらの時間と材料としていくつかの惑星が必要らしい。

 この話を聞くと同じプリンストン大のJ.K.オニールの考えたスペースコロニー構想なんて可愛い物だとも思えてくるのだが。


ドン・ファン (19990425)

 中世の南欧に起源すると言われる伝説上の人物。様々な作品に登場する間に共通の性格が形作られ、蕩児、好色漢の代名詞となってしまった。14世紀のスペインに実在したといわれる「ドン・ファン・テノリオ」がモデルとも言われるが根拠はない。
 その登場作品としてはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」やバイロンの「ドン・ジョアン」などが有名。およそ「伊勢物語」の在原業平や「源氏物語」の光源氏と同じようなキャラとおもえば分かりやすい。

 もっと分かりやすく言えば「同級生」に代表されるような多方位同時攻略可能型の18Kゲームの主人公なんかまさにそうなんだけど。いやはや。